製薬業界から大きな注目を集めていたノボノルディスク社のセマグルチド特許無効事件について、2025年12月26日、中国最高人民法院は最終判決を下し、中国知識産権局が下した第57950号無効宣告請求の審査決定を取り消しました。さらに2026年5月11日、中国知識産権局は中国最高人民法院の判決に基づき、新たに構成された合議体により第630010号審査決定を下し、当該特許権の有効性を正式に維持しました。
セマグルチド(Semaglutide)は、ノボノルディスク社が開発した長時間作用型GLP-1受容体作動薬であり、以下の構造改変によって「週1回の投与」を実現しています。すなわち、DPP-4酵素による分解を防ぐために第8位のアラニンをα-アミノイソ酪酸(Aib)に置換え、さらに第26位リジン側鎖を-Glu-AEEA-AEEA-スペーサーを介してC18二酸と結合させることでアルブミンとの強固な結合を実現し、半減期を大幅に延長します。
その顕著な治療効果、高い安全性、そして驚異的な売上高に加え、セマグルチドのコア特許であるZL200680006674.6が2026年3月20日に満了することを踏まえ、中国市場では多数の事業者が同市場への参入を模索しています。少なくとも30社以上の中国製薬企業がセマグルチドのジェネリック医薬品の開発を進めており、その中には、前述のコア特許に対して無効審判を請求した杭州中美華東製薬有限公司(以下、「中美華東社」という)を含む、中国の大手製薬企業も少なくありません。
2021年6月10日、中美華東社は中国知識産権局に対し無効審判請求(事件番号:4W115162)を提出しました。主な無効理由は、明細書の開示不十分および請求項1〜5の進歩性欠如です。無効審判プロセスにおいて、特許権者であるノボノルディスク社は18件の反証を提出しました。そのうち、第一群の補足実験データは、主に本特許の優先日前に、本特許の請求項1に係るセマグルチドに関する活性測定実験が既に完了していたことを証明するためのものであり、第二群の補足実験データは、主に本特許の請求項1に係るセマグルチドとリラグルチドとの比較実験データを記載しているものでした。
2022年8月24日、中国知識産権局は第57950号無効審判請求審査決定を下し、当該特許権を無効としました。同決定において、中国知識産権局は以下の見解を示しました。
『係争特許請求の範囲では、同時に、上位概念による包括的記載、一般式で表される化合物による記載、および複数の選択可能な具体的な化合物を並列に列挙する形式により、異なる階層で化合物が限定されている。当業者は、出願書類の記載を踏まえても、明細書に記載された測定方法またはスクリーニング方法によって選別された化合物の階層や範囲を特定できず、具体的にどの化合物を対象にスクリーニングが行われたのかを特定することができない。明細書の実施例には、セマグルチドを含む22個の具体的な化合物の調製過程が記載されているものの、実施例中の22個の具体的な化合物に対するスクリーニング過程および結果データは明細書に記載されていない。
第一群および第二群の補足実験データが証明しようとする、具体的な化合物であるセマグルチドの作用時間が長いという技術的効果は、元の出願書類の記載内容からは導き出せない。当該実験データが証明する、出願書類において未開示であり、かつ当業者が出願書類の記載内容に基づいて導き出すことができない技術的効果は、本特許の出願日時点における技術的貢献には該当しない。』
2023年2月1日、特許権者であるノボノルディスク社は、北京知識産権法院に、無効決定の取り消しを求める行政訴訟を提起しました。
2023年11月6日、北京知識産権法院は、係争無効決定を取り消し、中国知識産権局に対し、審査決定を改めて行うよう命じる判決を下しました。
北京知識産権法院である一審裁判所は判決において、以下の見解を示しました。
『セマグルチドは当該一般式で表される化合物の保護範囲に含まれる。通常、一般式で表される化合物には多数の具体的な化合物が含まれており、明細書において各具体的な化合物に対応するデータが記載されていない場合、明細書に記載された一般式で表される化合物の技術的効果が保護範囲内のすべての具体的な化合物に必然的に適用されるとは当然に断定できないが、これは、それをもって、当該技術的効果が明細書の記載内容からは導き出せないと認定できることを意味するものではない。
一般式で表される化合物の技術的効果が明確に記載されている場合、少なくともその技術的効果が保護範囲内のすべての技術案に適用されると合理的に推定することができ、特許権者が補足実験データを提出することによって、特定の具体的な化合物にも同様の技術的効果が存在することを立証することは認められるべきである。そうでなければ、一般式で表される化合物については、明細書において、具体的な化合物ごとに相応の技術的効果を記載しなければならないことを意味する。これは、上位概念で記載された技術案について、保護範囲内の各具体的な技術案に対し、補足実験データで当該技術案の技術的効果を証明することができなくなることを意味する。このような要求は明らかに不合理であり、実行不可能である。
さらに、セマグルチドは、明細書において調製され、スクリーニングに用いられた具体的な化合物の一つであるため、このような状況下では、セマグルチドが前記技術的効果を有すると推定されるべきである。』
2025年12月26日、最高人民法院は最終判決を下し、北京知識産権法院の判決結果を維持しました。
最終判決において、最高人民法院である二審裁判所は以下の見解を特に強調しました。
『補足実験データの採用可否については、保護を求める技術案と、明細書に記載された技術的効果に対応する技術案との関係、当業者が当該技術的効果を検証する方法を認識しているか否か等の要素を総合的に考慮し、元の出願書類において、補足実験データによって直接立証しようとする事実が開示されているか否かを判断すべきである。本件明細書は、単に一般式で表される化合物の技術的効果を抽象的に記載したものではなく、具体的な化合物の特定の技術的効果が先行技術より優れていることについて、当業者が合理的に確信できるような内容を記載している。
また、係争無効決定は技術的効果および発明が実際に解決する技術的問題について適切な認定を行っていなかったため、技術的示唆に関するその評価の前提自体に不備がある。』
補足実験データの受け入れ可否の判断について、特許行政部門は、ノボノルディスク社が提出した補足実験データは、「補足実験データによって証明される技術的効果は、元の出願書類の記載内容から導き出せるものでなければならない」という基準を満たしていないと判断しました。その理由が、係争特許請求の範囲では、同時に、上位概念による包括的記載、一般式で表される化合物による記載、および複数の選択可能な具体的な化合物を並列に列挙する形式により、異なる階層で化合物が限定されていたためです。特許行政部門が、補足実験データの受け入れ可否を検討する際に採用している基準では、具体的な化合物に対応する技術的効果は元の出願書類に記載されている必要があり、一般式で表される化合物の技術的効果は、具体的な化合物にまで及ぶことはできないとされています。
しかし、一審・二審裁判所はこれに対し、いずれも反対の見解を示しました。すなわち、一般式で表される化合物の技術的効果が明確に記載されている場合、その技術的効果は、少なくとも保護範囲内のすべての技術案に適用されると合理的に推定できるということです。そうでなければ、一般式で表される化合物に関しては、明細書において、保護範囲内の具体的な化合物ごとに対応する技術的効果を記載しなければならないからです。
さらに、最高人民法院は以下の原則も明確にしました。
(1)出願人が、特許技術案が先行技術に比べて優れた技術的効果を有することを明示的または黙示的に主張しており、当業者にとって、先行技術、特許技術案、および検証方法を把握し、明細書に具体的な検証結果の記載がなくとも、出願人の主張に対して「合理的確信」を持てるか否かを判断するに十分である。この場合、合理的確信を持てると、出願人が過去に主張した事実について、後日提出された証拠を用いて立証することを認めるべきである。
(2)補足実験データについては、出願日(優先日)以前に作成されたものであることを当然に要求することはできない。
進歩性の判断については、特許行政部門と特許司法部門の論理は一致しており、いずれも、進歩性の有無は、先行技術に基づいて特許保護を求める技術案を容易に想到できるか否かによって判断すべきであると認めています。ただし、その判断方法には違いがあります。
特許行政部門は、補足実験データを受け入れなかったため、特許保護を求める技術案が先行技術と比較してより優れた技術的効果または予期せぬ技術的効果を有することを示すデータは存在しないと判断しました。さらに、特許保護を求める技術案と最も近い先行技術との区別される技術的特徴が既に先行技術に開示されていたら、それら区別される技術的特徴を最も近い先行技術で開示されている技術案と組み合わせることで、特許保護を求める技術案を得ることができるため、進歩性を有しないと判断しました。
これに対し、特許司法部門は、進歩性の判断は「審査指南」に規定される三段階法に従って行われるべきであるとしました。すなわち、まず技術的効果に基づいて解決すべき技術的問題を認定し、その上で、当業者にとって、開示された区別される技術的特徴を最も近い先行技術で開示されている技術案と組み合わせて、特許保護を求める技術案を導き出す動機付けとなるような技術的示唆が存在するかどうかを判断すべきであるとしました。
一審・二審裁判所は、判決書において、「仮に一歩譲って、ノボノルディスク社が補足提出した実験データを考慮せず、本件特許のセマグルチドとリラグルチドが基本的に同等の技術的効果しか有しないと認定したとしても、セマグルチドの取得は依然として自明ではない」と明記しています。すなわち、特許司法部門は、進歩性の有無は、最も近い先行技術より優れた効果が存在するか否かを要件とするものではなく、組み合わせの示唆があるか否かこそが、進歩性判断の核心であると判断しています。
補足実験データは手続き上のルールではありますが、実質的な特許付与の基準に重大な影響を及ぼします。これにより、重要な革新的な医薬品が中国では特許を取得できない、あるいは無効宣告を受ける可能性がある一方で、同様の革新的な医薬品が中国の主要な貿易相手国では特許権の保護を受けられるという事態が生じ得ます。このような手続き上のルールによって生じる実質的な差異は、中国が国際的な規範と整合していないという印象を与え、ひいては世界からの対中投資にも影響を及ぼすことになります。
本件の終審判決は、審査実務において長らく議論の的となっていた2つの点について、出願人に有利な判断を下しました。一点目は、補足実験データの受け入れ可否について、より寛容かつ合理的な基準を採用した点、二点目は、進歩性判断について、三段階法による判断基準を採用すべきであることを明確にし、進歩性の有無は最も近い先行技術より優れた効果が存在するか否かを前提とはしないことを示した点です。
本事例は、現在の特許審査実務における審査基準の運用において、重要な意義を有しています。